建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

弘道館講座『茶の湯の文化を識る』

弘道館講座『茶の湯の文化を識る』で、「茶の湯空間の近代」と題して、お話しして参りました。
2月に出版した同書の内容を、なるべくわかりやすくお話しいたしました。
茶の湯にとって苦難な時代を乗り越え、大きく発展した近代の茶の湯。その茶室や数寄屋についての講座です。
近代の建築家たちがどのような視点で茶の湯空間、つまり茶室や数寄屋を見ていたのか、当時の言説と合わせて、具体的な事例で説明いたしました。
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『茶の湯空間の近代』の読み方 その7

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その7

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘(現在のページ)

■ 第七章 高谷宗範と松殿山荘

いよいよ最終章。本章では、昨年(平成29年)重要文化財に指定された松殿山荘について、作者高谷宗範の建築の「仕事」とともに記している。
高谷宗範は官僚であり、のちに弁護士となった人物で、建築を生業としていた人ではない。いわゆる数寄者である。この時期の数寄者には建築について非常に詳しい人がいたが、宗範もその一人であった。最初大阪今橋に居を構えたが、その屋敷の茶室に手を加え、今でいうところのリノベーションを行い、新たな茶室として甦らせた。
その後知人の茶室や居宅の設計を行った。それはのちの松殿山荘につながるものであった。松殿山荘はじつにユニークな建築である。いちおう、近代和風、近代数寄屋という分類になるだろうが、他のものと大きく違っている。なぜこのようなものができたのか。単に新奇なものを造ろうとしただけではない。作者の高谷宗範の深い考慮の中から生まれたのが、この建築である。その概要の一部を記しておこう。

現在明治村に移築されている芝川邸は明治44年に建設されたものである。じつはこの洋館には、かつて和館が併存していて、その設計に高谷宗範が加わっていたというのだ。さらに言うと、芝川邸と松殿山荘、近似の意匠がみられる。この芝川邸における武田との出会いが高谷宗範の考え方を大きく変えたものとみられる。もちろん宗範はプロではなくジェントルマン・アーキテクトであり、ぎこちなさは残る。しかし宗範自身、建築界の当時の情報を見聞し、真摯にそれを取り込んだのがこの建築である。建築史家鈴木博之は「われわれの二十世紀は、建築の表現の論理においては、松殿山荘を越えるラディカリズムを戦後に至るまでもっていない」と評している。(あとは本書をお読みください)

『茶の湯空間の近代』の読み方 その6

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その6

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ(現在のページ)
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘

■ 第六章 近代の安土桃山イメージ

明治初期の茶の湯にとって不遇な時代から、茶の湯が復興するきっかけの一つとなった出来事、愛知県博覧会の猿面茶室について、本章の最初に取り上げている。
これまでにも何度か取り上げた内容であるが、ある意味それは「うそ」の内容が含まれる。つまりこの床柱の猿の面のような斫り目から、信長と秀吉の戯れ言が世間に広まるが、それは根拠の無いことである。
茶の湯の復興には、そのような側面もあった。茶の湯関係者にとってみれば、なんだかすわりが悪い話かも知れない。私自身も書くべきかどうか悩んだ部分だ。この部分は自分でも嫌になるときがある。ただ復興の為のさまざまな側面を記しておくことは重要なのではないかと思い、記したわけである。
また本章では上記の秀吉イメージだけではなく、利休イメージも扱った。その概要の一部を記しておこう。

近代の茶の湯、そして茶の湯空間に重要な要素は利休イメージであった。これは江戸期末頃の茶の湯の遊芸的なイメージを払拭するため、精神性を正面に持ってきたものと考えることができる。第二章で記した紅葉館や星岡茶寮には利休堂が設けられた。のちの料理店なら不要な施設である。また第三章の今泉や武田の論文においては、千利休への注目は非常に高いものである。千利休の造った茶の湯空間、これに近代性を見ることは武田からはじまり、大正や昭和期の建築家たちに受け継がれた。(あとは本書をお読みください)

『茶の湯空間の近代』の読み方 その5

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その5

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献(現在のページ)
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘

■ 第五章 昭和前期の茶室の文献

昭和になると、茶の湯空間への注目度が増す。本章は建築の雑誌の茶室や数寄屋の特集号を中心に論じる部分である。昭和を代表する建築家、堀口捨己吉田五十八なども積極的に意見を述べている。またこの時期、ブルーノ・タウトが来日し、桂離宮を絶賛したことでも知られる。
ちなみに、ここ20~30年ほど前から、タウトの言葉は日本の建築家によって「つくられた」ものとの説が出回るようなった。井上章一氏の論文『つくられた桂離宮神話』で、何度か再版されている。井上氏は批判されたというが、具体的な内容は聞こえてこない。批判するなら、具体的に示す必要があろう。
さて、タウトの言説はつくられたものだろうか。彼の言説を丹念に調べていくと、ドイツ在住時から日本に興味を持っていたが、ドイツでは日本のことがあまり伝わってこないと残念に思っていたそうだ。一方イギリスにはある程度伝わっていて、ウィリアム・モリスらに憧れていたと記されている。また来日前には数寄屋建築にも興味を持っていたと述べる。本章では井上氏の上記論文についても時々参照している。参考にすべきところは多いが、しかし全体の流れは意図的に選んだ文献を使用している。当然見ているはずの文献を無視しているのだ。もっとも本書は趣旨の違う他の論文を糾弾することを目的としたものではないので、脚注に記すにとどめている。丁寧に読んでいただけると、その部分も見えてくると思う。
ついでではあるが、また本書とは直接関係ないが、数年前「山上宗二記にみる茶室」を記した。ここでも、20~30年ほど前から信じられていた中村利則氏の「関白様御座敷二畳敷=待庵の祖形」説に疑問を呈した。中村利則氏の論文も参照にするところが多いが、意図的かどうかは不明だが、おそらく見ているであろう文献を落としている。結果、先の飛躍が大きすぎる説が生まれ、それを論拠に復元?という具体的な作業にまでおよんでいる。
これらはじつは本書の出版社(思文閣出版)とも関わりのあるものだ。このような私に、公正中立な立場で論文を書かせていただいて、感謝するしだいである。
論文には間違いがある(こともある)。本来は完璧であらねばならないが・・・人が書くものであるからやむを得ない部分もあると思う。しかし特に問題なのは、一つの説が呈示され、それが具体的に批判されることなく、繰り返し語られることである。本人に悪気はないかも知れない。しかし周りがそれをはやし立て、いつの間にかそれが常識となってしまう。本人も最初は少し引っかかっていたものが、いつのまにか忘れ去られ、ひとり歩きしてしまうのだ。誰かが批判する役割を負わねばならない。もちろん私の論文(世間にはさほど影響力は無いだろうが・・・)に誤りがあれば、気付いた方は是非お申し出頂きたいし、場合によっては論文で取り上げてご批判頂きたいと思うしだいである。
本書の内容に戻ろう。堀口捨己はいう。「今ここに現代建築の立場で、利休の茶室をとり上げる」と。先の武田の論文は利休に一つの到達点を見るが、その後の時代には興味を示していない。一方、堀口の立場は違う。利休以後の茶の湯空間についても評価が高い。
建築の各雑誌は昭和前期、茶室や数寄屋の特集号を組んでいる。本章ではそれを取り上げている。その概要の一部を記しておこう。

ある雑誌の数寄屋造特集号、本文を読んでいるとこれが数寄屋造?と思うような文章が多数寄せられているものがある。すなわち各建築家たちは、せっせと近代建築について記しているのだ。数寄屋造特集号に、である。そして最後の方に数寄屋造との接点を示す。またグラビアには堀口のモダニズム作品も掲載している。部分を見ただけでは、これが数寄屋造特集号だと誰も気付かない構成だ。またある雑誌の国際建築特集号にはせっせと数寄屋建築のことが記されている。これはブルーノ・タウトに因んだ特集号なので、およそ想像はできる。数寄屋をはじめ日本建築の近代性について多くのページをさいているのである。(あとは本書をお読みください)

『茶の湯空間の近代』の読み方 その4

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その4

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献(現在のページ)
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘

■ 第四章 大正期の茶室の文献
大正時代、すなわち20世紀初頭、世界の建築の潮流は、どんどん変化していたときであった。その中からいわゆるモダニズムが誕生し、この様式なき様式は、その後しばらく世界の建築を牽引していくことになる。さてその大正時代、日本建築にとっても激動の時代で、明治末頃から活発化した議論、「我国将来の建築を如何にすべきや」に象徴されるように、今後の日本建築についてのあり方がさまざまな方向から検討されていた時代でもあった。
それからもう一つの側面がある。それは建築家の作品というわけではないが、いわゆる数寄者たちが、郊外に山荘風の数寄屋建築を建築するようになっていたのだ。少し立場を違えるが、ハワードによる「明日の田園都市」が明治に邦訳(厳密なものではない、日本の事情がずいぶんと組み込まれた創作とも読める)され、郊外における田園風の生活が称賛された時期でもあった。またこの邦訳には日本においては、都市建築にも田園都市の理想が備わっているとしている。
本章は、日本建築学会の査読論文と、大会発表の論文からなるものである。明治時代に武田の茶室の論文が発表されてから、しばらくの年月がたつが、この大正期後半、再び茶室についての注目の度合いが増加する。当時の建築の雑誌から茶の湯空間にかかわる記事を蒐集すると、それは恐ろしいほど近代建築の論調とかぶっていることに気づかされる。それでは本文の概要の一部について記しておこう。

武田の論文のあと、茶室についての議論は盛んではなかった。しかし大正時代の後半になって、多くの建築家たちが、茶室について議論を始める。それは武田も指摘していたが、茶室の中に近代建築の性格がひそんでいるということであった。すなわち、先に挙げた装飾を省くだとか、左右非相称だとかいう内容である。さらに自然との関わりも問題にする。西芳寺の湘南亭の広縁をベランダと称する人も現れた。言い得て妙である。この時期、自然と人工との関わりは西洋の建築家の大きなテーマであった。一方で日本建築においては人工的な建築内部に自然が取り入れられ、外部空間と内部空間との境に、外でもあり内でもある曖昧な空間が作られていた。茶室の土庇や先の広縁などである。(あとは本書をお読みください)

『茶の湯空間の近代』の読み方 その3

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その3

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋
その3 第三章 明治期の茶室の文献(現在のページ)
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘

■ 第三章 明治期の茶室の文献
明治期、茶室の研究を行った建築家として武田五一が知られている。しかしこの武田の論文を読めばわかるが、その後堀口捨己や、中村昌生らによって確かな方向付けが行われた茶室研究と比較すると、かなり拙いものであることは否めない。しかし、ここでは方向を変えてこの論文を読んでいる。つまり近代建築の論文としてこれを読むと、非常に面白い。もちろんそのためには若干の茶の湯に対する知識が必要だが、さほど難しい内容ではない。
じつはこの論文、筆者が今をさかのぼること30数年前に記した、大学院修士論文の一部である。じつはその公聴会の時、当時のF教授からケチョンケチョンにされたのがこの論文である。要は、私が用語の使い方を間違ったのである。その時、細部に至るまで、注意して論文を書かねばならない、と肝に銘じたのである。しかし一方で、論文の核心部分に一切触れられないで終わった公聴会でもあった。幸い、部分を修正することでその論文によって修士は頂いたのだが、正直、大変悔しい思いをした。今だとハラスメントなどと叫ぶ人がいても不思議ではない程、私にとって厳しいものであった。核心は間違っていない、と信じつつ、しかし私は研究からしばらく離れることになった。
その後、10年ほどたってから、N名誉教授から論文を書いてみないか、とのお声がけをいただき、相前後し他の論文と一緒に、その部分を抜き出し、修正して日本建築学会の査読論文に投稿し、みごと掲載を勝ち取ったものであった。ちなみに博士論文にはこの論文を加えてはいない。あくまでもその基本は修士論文という認識である。
さて、個人的なに事情についついスペースをさいてしまったが、本章の概要について述べておこう。

武田五一の茶室研究には、南方録視点が強く入っている。この南方録の視点とは、千利休を絶賛し、しかしその後の茶室(南方録では以後の茶の湯そのもの)については評価が極めて低いものである。大きな会所空間から、小さく囲って四畳半が誕生し、さらにそれが無駄を省き、小さくなり、極限の二畳(一畳大目(台目)、客のための一畳、亭主のための一畳)を利休が生みだした。これ以上何があるというのだ?とでも言いたげな、武田の視点はわかりやすい。それ以外に、装飾を削ぎ落とし左右非相称の空間を強調するところなど、近代建築の論文といって良いものである。
さてこの武田の論文はいきなり生まれたものではない。それ以前に記された今泉雄作の視点が大きいとみられる。さらにその後の建築家の茶室への視点に少なからぬ影響を与えたものと考えられるものでもあり、若干大袈裟かも知れないが日本建築の近代化にとって大きな意味を持つ。(あとは本書をお読みください)

『茶の湯空間の近代』の読み方 その2

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その2

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋(現在のページ)
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘

■ 第二章 公の場所に設置された数寄屋

明治維新を迎えたとき、日本の伝統文化は危機的な状況に陥った。それは単に外国から新しいものが入ってきたというだけではない。パトロンとしてあった大名、寺院、そして旧勢力と関わりの深い商人たちの没落という側面がある。維新以後、多くの伝統文化の没落が見られたが茶の湯そして建築としては茶室や数寄屋もそのうちの一つであった。本章においては、没落した茶の湯がいかにして復興成し得たのか、東京府の公園における社交施設、紅葉館と星岡茶寮にスポットを当て、その建設経緯などを考察したものである。
残念ながら、本章は読んでいてあまり面白い部分ではない。場合によっては飛ばして読んでいただいても結構である。こんなことを筆者が言うのもどうかと思うが、それは事実である。この部分は日本建築学会の論文集および茶の湯文化学会で、研究者としての私が、初期の頃発表した内容について記したものなのでやむを得ない。ただ元の論文はもう少し長い。これでも冗長だと感じる部分を削除しているのだ。
さて、とはいうものの、できれば読んでいただきたいので、概要を記しておこう。

星岡茶寮というと何をイメージするだろうか?多くの人は、昭和初期の北大路魯山人の料理店、星岡茶寮(ほしがおかさりょう)をイメージするのではないだろうか。じつは明治期には「ほしがおかちゃりょう」と読んで、茶の湯を中心とした社交施設なのであった。同様のものとして紅葉館がある。これも金色夜叉の舞台として、料理店のイメージが強いが、元は社交施設、当時の東京府は迎賓館のようなものをイメージしていた、という事実も見えてきた。
これら二つの施設が、東京府の公園に設置されるのだが、従来の公園史の立場からは、公の場所に料理店が建てられた。つまり前近代的だ。というのが主要な論調である。しかし、多少の閉鎖性は認めるものの、誰もが会員になることができ、また見学のできる開放的な施設なのであった。そしてこれらの施設の建設経緯が、東京府の史料から明らかになる。若干の図面が残っているのである。それによると、当初は茶の湯があまり意識されていなかったところ、途中から意識されるようになった。とりわけ筆者は利休堂が設けられるところに着目する。じつは近代における利休は特別な存在だ。それはこのあとの章を見ていただければわかることである。(あとは本書をお読みください。)

『茶の湯空間の近代』の読み方 その1

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その1

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要(現在のページ)
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘

■第一章 茶の湯空間の近代、その概要

第一章は茶の湯空間についての概要を記した部分である。本書は学術書であり、本来はその分野全体を見わたす概要などというものは不要であるかも知れない。しかし茶の湯空間の研究者は極めて少ない。また日本建築史あるいは近代建築史を専門とする研究者においても茶の湯空間について理解している人は極めて少ないと感じている。
そのような現実を踏まえ、筆者は出版社に次のような話をした。私の専門分野についての書籍、一体誰が読むのでしょうか。この本をしっかりと評価あるいは批判できる人はいるのでしょうか、と。出版社の方は少々困った顔をされたが、幸いにも日本学術振興会から科研費を頂いて執筆することが決まった。少なくとも日本学術振興会において評価されたということで、私の分野を理解あるいは批判できる人がいるんだと、少し胸をなで下ろした。

じつはこのような事態は、ここ20年ほどのことだと思われる。本書にも一部扱っているが、昭和から平成のはじめの頃までは、建築史研究者はもとより建築家たちにおいても、茶の湯空間についての知識は常識の範囲内であって、多くの方々がそれについて侃侃諤諤と意見をたたかわしてきた。なぜか近年極端に減少したのである。
一方で近代建築は空前のブームである。しかし茶室を熱く語っていた建築家の作品を茶室について知らない人が論じる。あるいは具体的な茶の湯空間が備わった民家調査を、茶の湯空間を御存知でない研究者や建築士の方が携わる、といった事態が生じているようだ。それは全国各地で行われた近代和風の調査に一部顕れている。茶室がどう見ても無視されているところがある。もちろん、それは一部であり、若い人たちはそうではないようにも思う。
さて、そのような経緯もあり、本書では概要からはじめた。本章の内容はさほど難しくは無いはずである。一端を紹介しよう。

西洋人たちは茶を求めてインドから東南アジア、中国、そして日本にやって来た。もちろん茶だけではないが、紅茶は一部の貴族たちから一般市民に拡がりをみせ、大量に消費される時代になってきたのである。彼らが日本にやってくる時代、それは19世紀半ばであるが、それは建築にとっても画期を迎えた時期であった。産業革命によって新しい材料が大量生産され、それに対応できるデザインを模索しはじめたときであった。具体的にいうと、それまでのヴォリュームのある石材に代わって細い鉄が使用されるようになる。この鉄に向いた意匠を模索していたのだ。日本は木造建築が発達していたが、とりわけ茶の湯空間に代表されるように、ことさら細い材料を使用していた。彼らが注目しないわけがない。
「茶」と「木」、茶の湯空間が西洋人たちに注目される素地はととのったのである。
(上記はこの概要の一部の概要です。あとは、本書をお読み下さい。)