建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

『茶の湯空間の近代』の読み方 その2

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その2

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋(現在のページ)
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘

■ 第二章 公の場所に設置された数寄屋

明治維新を迎えたとき、日本の伝統文化は危機的な状況に陥った。それは単に外国から新しいものが入ってきたというだけではない。パトロンとしてあった大名、寺院、そして旧勢力と関わりの深い商人たちの没落という側面がある。維新以後、多くの伝統文化の没落が見られたが茶の湯そして建築としては茶室や数寄屋もそのうちの一つであった。本章においては、没落した茶の湯がいかにして復興成し得たのか、東京府の公園における社交施設、紅葉館と星岡茶寮にスポットを当て、その建設経緯などを考察したものである。
残念ながら、本章は読んでいてあまり面白い部分ではない。場合によっては飛ばして読んでいただいても結構である。こんなことを筆者が言うのもどうかと思うが、それは事実である。この部分は日本建築学会の論文集および茶の湯文化学会で、研究者としての私が、初期の頃発表した内容について記したものなのでやむを得ない。ただ元の論文はもう少し長い。これでも冗長だと感じる部分を削除しているのだ。
さて、とはいうものの、できれば読んでいただきたいので、概要を記しておこう。

星岡茶寮というと何をイメージするだろうか?多くの人は、昭和初期の北大路魯山人の料理店、星岡茶寮(ほしがおかさりょう)をイメージするのではないだろうか。じつは明治期には「ほしがおかちゃりょう」と読んで、茶の湯を中心とした社交施設なのであった。同様のものとして紅葉館がある。これも金色夜叉の舞台として、料理店のイメージが強いが、元は社交施設、当時の東京府は迎賓館のようなものをイメージしていた、という事実も見えてきた。
これら二つの施設が、東京府の公園に設置されるのだが、従来の公園史の立場からは、公の場所に料理店が建てられた。つまり前近代的だ。というのが主要な論調である。しかし、多少の閉鎖性は認めるものの、誰もが会員になることができ、また見学のできる開放的な施設なのであった。そしてこれらの施設の建設経緯が、東京府の史料から明らかになる。若干の図面が残っているのである。それによると、当初は茶の湯があまり意識されていなかったところ、途中から意識されるようになった。とりわけ筆者は利休堂が設けられるところに着目する。じつは近代における利休は特別な存在だ。それはこのあとの章を見ていただければわかることである。(あとは本書をお読みください。)