建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

弘道館での講座 茶の湯の文化を識る

本日は有斐斎弘道館にて、「近代数寄屋の一側面「あさが来た」「マッサン」そして「ごちそうさん」を繋ぐもの」と題するお話をして参りました。
松殿山荘とそれをつくったジェントルマンアーキテクト高谷宗範について、その特殊な数寄屋建築が生まれる背景を、NHKの朝の番組を通して説明しました。
よけいに複雑になってしまったかもしれませんが、親しみも持っていただけたかなと思います。
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「あさが来た」の主人公の姉はつの嫁ぎ先山王寺屋、史実としては天王寺屋(大阪今橋)の屋敷の一部が松殿山荘に移築されています。

講演会 高谷宗範 「茶室と庭園」 をめぐって 11/23

11/23、松殿山荘にて「高谷宗範『茶室と庭園』をめぐって」と題して、講演いたしました。
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先般の建築学会での発表を、一般向けにした内容を中心に、今話題の大阪今橋の天王寺屋(朝ドラ「あさが来た」の山王寺屋)から移築した座敷についてもお話ししました。これは昨年から京都府建築士会の皆さまに協力いただいて行っている調査によって、少しわかってきた内容も含まれています。
ちなみに昨年の朝ドラ「マッサン」でニッカウヰスキーに出資した芝川又四郎(ドラマでは野々村さん)の甲東園の屋敷、和館の一部を高谷宗範が設計しています。そして洋館(現明治村に移築)は武田五一(一昨年の朝ドラ「ごちそうさん」の竹元教授)の設計です。またこの松殿山荘と芝川邸にはいろいろ共通点があります。そんなお話をして参りました。shoudensansou.wix.com

The 3rd Ocha Zanmai Conference のお知らせ

2016年5月1日、San Francisco State UniversityにおいてThe 3rd Ocha Zanmai Conferenceが開催されます。
私も特別講演で"Tea Rooms in Momoyama Era (late 16th century) and Yamanoue no Soji ki(山上宗二記と桃山の茶室)"と題して、お話しする予定です。

Guest Lectures 特別講演
Mr. Seiwemon Onishi, "Cha-no-yu-Kama: Beauty and Appreciation"
大西清右衛門氏 (千家十職釜師) 茶の湯の釜の美と鑑賞」
Dr. Kunio Kirisako, "Tea Rooms in Momoyama Era (late 16th century) and Yamanoue no Soji ki"
桐浴邦夫博士 (建築史家)「山上宗二記と桃山の茶室」
(San Francisco State University HPより)

内容は、利休をはじめとする桃山時代の茶室の概要ですが、一部、近年の研究の成果を含んだもの(*1*2)とする予定です。

高谷宗範『茶室と庭園』をめぐって

建築学会大会において「高谷宗範『茶室と庭園』をめぐって」と題して発表して参りました。
これまでも高谷宗範と松殿山荘に関して、連続して発表してきましたが、今回は昭和2年に刊行された『茶道の主義綱領 茶室と庭園』(恩賜京都博物館での講演録)に関して取り上げました。
内容は、いずれ公開されるCiNii Articles 検索 -  桐浴邦夫などでお読みいただければと思いますが、概要を記しておきたいと思います。
高谷宗範はいわゆるジェントルマンアーキテクトであって、職業としてではありませんが、建築に関する知識や時代の動向の把握はかなり高いレベルであったといえます。最初は茶の湯の趣味から発展したものだと考えられます。やがて数寄者仲間の邸宅の設計も手がけるようになり、幾つかの図面も遺っています。その一つに芝川又右衛門邸があります。明治44年に武田五一が洋館を設計するのですが、その和館や芝川家の茶室の移築などに関わっていました。また藤井厚二が竹中工務店時代に屋敷を設計した村山龍平とは茶の湯の仲間でした。
宗範の『茶室と庭園』をみていくと、建築に関して、住居史的視点、環境工学的視点、そして様式の問題を意識していたことがわかります。とりわけ様式の問題は当時の建築界にとって大きな課題であったものです。大正頃の建築を「目下試験中の過渡期」などと記していました。そういったことはおそらく武田や藤井らから、直接あるいは間接的に知り得たものであろうと考えられます。
梗概集には載せていませんが、9/4発表時に使用した図をご覧下さい。

大正4年 京都商工会議所計画案 武田五一(作品集より)

大正15年 松殿山荘中玄関 高谷宗範
宗範は自らの考えに基づいて建築設計を行っていたのですが、おそらく武田や藤井らからの影響も少なからずあったものと考えられます。
その意味で松殿山荘は、宗範の個人の趣味というより、むしろ数寄屋建築の近代化という大きな問題に立ち向かった宗範の、壮大な実験住宅ではなかったのでしょうか。

聴竹居(大山崎) と 松殿山荘(木幡)
大正末から昭和初期、巨椋池を挟んで西と東に、それぞれ藤井と宗範が実験住宅を構えました。

ニッポンが誇る「モダニズム建築」

Casa BRUTUS特別編集 ニッポンが誇る「モダニズム建築」にsupervisorとして協力いたしました。(2009年4月号が他の特集を加えて再版されました)
http://magazineworld.jp/books/paper/5028/

「日本モダニズム7人の巨匠」特集のうち、吉田五十八村野藤吾堀口捨己らの和風への関わりについての部分です。特に数寄屋をどのように捉えたか、近代化しようとしたのか、ということに着目したものです。
k-soho.hatenablog.com

茶書研究会「山上宗二記」シンポジウム

昨日は茶書研究会主催の「山上宗二記」シンポジウムでした。
私は「『山上宗二記』にみる茶室」ということでお話しして参りました。
概要は、以前の『茶道文化研究』に掲載したものをベースにしていますが、一部新しい史料も使用し、より考察を深めたものです。概要は以下の通りです。
今回は時間の都合もあり、以下のa紹鷗四畳半、b関白様御座敷、に絞りました。
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今日庵本の図をリライトしたものです。元の図は、縮尺1/60(1間を1尺)で、丸太と角柱を区別し、畳の大きさを6尺3寸×3尺1寸5分で描くなど大変正確な図です。
aでは、出入口を低く設定し、床框に木理の見える「掻き合わせ塗り」を採用し、また角柱主体の室内構成の中に一部丸太が見えてきています。そのようなことから真の格式あるものから少し侘びたものとして位置付けることが出来ます。その意味では否定的に捉えられる『南方録』の内容ともある程度の一致を見ることができます。
一方坪の内が変化して露地になったとするならば、路次(露地)から坪の内というこれまで示されてきたアプローチには少し違和感を感じるため、町家主屋室内から一度庭に出て、坪の内に入るいうアプローチを考えてみました。これにはいくつかの意見が出されましたが、良い視点を提供していただいたと思います。さらに検討し、まとめていきたいと思います。

bは、近年、山崎城に利休が造った二畳敷で、それは待庵の元の姿である、との視点が主流となっていましたが、これに異を唱えました。すなわち、完全に否定できることではありませんが、その可能性は限りなくゼロに近い、ということです。
具体的には次の通りです。床の間の大平壁(奥の壁)の両脇には柱が見えています。すなわち室床ではありません。また坪の内に面しては貴人口形式の可能性が高いと考えられます。躙口の可能性は低いと思われます。これは他の宗二記の図から推し量ることができます。以上より、b図は待庵の元の姿とはいえないと言うことです。さらに、これまでは利休の手紙より、利休が山崎城に茶室を造っていたと言われてきましたが、二畳であるとはどこにも記されていませんでした。秀吉が山崎城の築城を行っていたとき、利休が山崎において忙しくしていた、という程度の内容からの推測でした。しかし、利休の手紙をさらに吟味しますと、山崎城において広間の茶室(畳、十二畳および炉畳を入手した手紙があります)を造っていた可能性が出て参りました。
以上より、b図は関白様御座敷であることから、堀口捨己らが主張していた大坂城の茶室である可能性が高いと考えられます。そして移築され現在妙喜庵にある待庵は、山崎の利休屋敷にあったか、あるいは現時点では謎のまま、としておいた方が良いと思われます。
論文・レジュメ_リンク

「山上宗二記」シンポジウム

茶書研究会のページに7/18(土)の「山上宗二記」シンポジウムについて掲載されています。www.miyaobi.com
茶書研究会「山上宗二記」シンポジウム


■「山上宗二記」シンポジウムのお知らせ

● 山上宗二(1544~1590)は、堺生まれの「薩摩屋」という屋号をもつ商人で、号は瓢庵。信長の時代は堺の自治組織である会合衆(えごうしゅう)のひとりで、信長の茶堂である今井宗久、津田(天王寺屋)宗及、千宗易(利休)につぐ茶人として、大名達の茶会にも招かれる人物であった。本能寺の変後、宗二は諸国を流浪する波乱の後半生を送り、天正18年(1590)、秀吉により惨殺された。享年47歳。
●『山上宗二記』は、そんな中、天正16年(1588)に約半年をかけて書き上げた茶の湯秘伝書である。そこには千利休在世時の茶の湯の様相を知りうる貴重な証言が含まれる。
● 本シンポジウムでは、今日庵本や不審菴本、高野山成就院宛本などの検討を中心に、『山上宗二記』の語るもの、そこにみえる茶室、茶人としての宗二について問い直す。

15:00~15:10 会長挨拶 筒井紘一
15:10~15:30 講演1「『山上宗二記』について」 谷端昭夫
15:30~15:50 質問と討論 八尾嘉男
15:50~16:10 講演2「『山上宗二記』にみる茶室」 桐浴邦夫
16:10~16:30 質問と討論 神津朝夫
16:30~16:50 講演3「新発見の成就院宛本について」 影山純夫
17:00~17:50 全体討論 司会: 筒井紘一

日 時:2015年7月18日(土) 15:00 ~ 17:50(14:40 開場)
会 場:キャンパスプラザ京都第3講義室
     〒600-8216 京都市下京区西洞院通塩小路下ル (ビックカメラ前) 075-353-9111
参加費:1,000円(予約不要)  茶書研究会の会員は700円

お問い合わせは茶書研究会事務局まで
メールchasho@miyaobi.com、お問い合わせフォーム、TEL075-441-7722

竹中大工道具館研究紀要26号

竹中大工道具館研究紀要26号が刊行されました。
道具館に所蔵される寺田家旧蔵数寄屋関係史料についての解題が一つの特集です。
私は、主に天明大火後の表千家屋敷の復興に関する史料を担当しました。
この史料を精査することで、さまざまなことが見えてきました。
今回は解題ですので、深入りせずにまとめましたが、機会をあらためて研究論文にしていきたいと思います。
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