「武野紹鷗とそれ以前の茶の湯空間」
紹鷗の茶室にいたる二つの筋道、すなわち茶室の原型として「会所」そして町衆の「アン」について述べ、それが統合した形として紹鷗の四畳半を位置付け、お話ししました。「山上宗二記」の一間床の四畳半と「和泉草」の床無しの四畳半について解説いたしました。
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近畿建築祭
1/31神戸で開催された近畿建築祭、「歴史的建造物調査 平時のネットワーク構築を考える」と題して行われたセッションのうち、京都府代表(KOMO(古材文化の会・伝統建築保存活用マネージャーの会)の代表)のパネリストとして参加しました。
各府県のヘリテージマネージャーが災害に対して、平時のネットワークをどう築いていくかという視点ではじめられましたが、災害と言うことを大上段に構えるのではなく、日常的なネットワーク構築がまず大切である、というまとめとなりました。
近畿各府県のヘリテージマネージャーは建築士を核にしつつも、それ以外の方々も参加しているなど、それぞれユニークな構成そして活動が行われています。今日はお互いの状況を知ることができ、ネットワーク構築としてまず第一歩を踏み出せたのではないかと思います。
「山上宗二記の茶室」
茶の湯文化学会近畿例会で発表しました。
内容は、先の「山上宗二記にみる茶室」を元にした発表です。
これまでと少し違った視点で、紹鷗や利休の茶室をみたものです。
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山上宗二記にみる茶室
今日庵文庫より『茶道文化研究』第六輯が刊行されました。拙稿「山上宗二記にみる茶室」が掲載されています。
この中で一つの問題提起をしています。
30数年前の研究のことです。中村利則氏によって、千利休がつくったとされる妙喜庵待庵の祖形が『山上宗二記』に記載の「関白様御座敷二畳敷」であり、それは秀吉の山崎城に建てられたものであった、ということが発表されました。一部には異論があるものの、しかし主に茶の湯の研究者の間では、それが定説となりかけていたものです。
今回、改めて『山上宗二記』を吟味すると、そこには大きな疑問点が存在することがわかりました。つまり断定こそできませんが、「関白様御座敷二畳敷」は待庵とは切り離して考えなければならない、ということです。
今後、各方面からのご批判、ご叱正を頂戴したいと存じます。
その上で、大きな問題点がないならば、これによって、千利休像の一部、また茶道史の一部には見直しも必要であろうと考えられます。
まずはご高覧賜りたいと存じます。
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京の茶室 公家の好み
京都市文化観光資源保護財団会報109に、拙稿、京の茶室3「公家の茶室」が掲載されています。
伏見稲荷御茶屋、曼殊院書院と茶室、仁和寺飛濤亭を紹介しています。
いずれ財団のページにも内容が掲載されると思いますので、ご笑覧下さい。
前回の記事は以下に掲載されています。
京都市文化観光資源保護財団
千利休の茶室をめぐって
今日は市民講座で、利休の茶室についてのお話をして参りました。
私が、待庵、大坂屋敷の三畳大目などについての解説を行い、次いで神津朝夫先生には、『山上宗二記』からみた利休像と茶室についてお話しいただきました。
その後、待庵に関連しての自説(といっても堀口説、中村昌生説を元にしたものですが)を披露し、そこから待庵あるいは山上宗二記の茶室図面についての対談を行いました。
私自身考えをまとめるよい機会になりましたし、神津先生のお考えや会場の方からの質問に大変勉強になりました。
映画「利休にたずねよ」(田中光敏監督、2013年12月7日全国東映系ロードショー)が、第37回モントリオール世界映画祭で最優秀芸術貢献賞を受賞したことも少しは影響しているのでしょうか。茶室のことで、これだけ人が集まるとは思いませんでした。もちろん今回は映画とはなんの関係もありませんが。
定員を超えて大勢の方におこしいただきました。ありがとうございました。
この図が何を意味するのか、それが問題です。
私は、文字どおり関白、つまり秀吉の茶室だと思います。可能性は山崎城あるいは大坂城。どちらかと言えば大坂城の山里であろうか。ただ床の間の間口が完成してすぐに縮められたのではないかと・・・。
このあたりのことに関しては、あらためて纏めたものを発表したいと思います。