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建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

茶書研究会「山上宗二記」シンポジウム

昨日は茶書研究会主催の「山上宗二記」シンポジウムでした。
私は「『山上宗二記』にみる茶室」ということでお話しして参りました。
概要は、以前の『茶道文化研究』に掲載したものをベースにしていますが、一部新しい史料も使用し、より考察を深めたものです。概要は以下の通りです。
今回は時間の都合もあり、以下のa紹鷗四畳半、b関白様御座敷、に絞りました。
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今日庵本の図をリライトしたものです。元の図は、縮尺1/60(1間を1尺)で、丸太と角柱を区別し、畳の大きさを6尺3寸×3尺1寸5分で描くなど大変正確な図です。
aでは、出入口を低く設定し、床框に木理の見える「掻き合わせ塗り」を採用し、また角柱主体の室内構成の中に一部丸太が見えてきています。そのようなことから真の格式あるものから少し侘びたものとして位置付けることが出来ます。その意味では否定的に捉えられる『南方録』の内容ともある程度の一致を見ることができます。
一方坪の内が変化して露地になったとするならば、路次(露地)から坪の内というこれまで示されてきたアプローチには少し違和感を感じるため、町家主屋室内から一度庭に出て、坪の内に入るいうアプローチを考えてみました。これにはいくつかの意見が出されましたが、良い視点を提供していただいたと思います。さらに検討し、まとめていきたいと思います。

bは、近年、山崎城に利休が造った二畳敷で、それは待庵の元の姿である、との視点が主流となっていましたが、これに異を唱えました。すなわち、完全に否定できることではありませんが、その可能性は限りなくゼロに近い、ということです。
具体的には次の通りです。床の間の大平壁(奥の壁)の両脇には柱が見えています。すなわち室床ではありません。また坪の内に面しては貴人口形式の可能性が高いと考えられます。躙口の可能性は低いと思われます。これは他の宗二記の図から推し量ることができます。以上より、b図は待庵の元の姿とはいえないと言うことです。さらに、これまでは利休の手紙より、利休が山崎城に茶室を造っていたと言われてきましたが、二畳であるとはどこにも記されていませんでした。秀吉が山崎城の築城を行っていたとき、利休が山崎において忙しくしていた、という程度の内容からの推測でした。しかし、利休の手紙をさらに吟味しますと、山崎城において広間の茶室(畳、十二畳および炉畳を入手した手紙があります)を造っていた可能性が出て参りました。
以上より、b図は関白様御座敷であることから、堀口捨己らが主張していた大坂城の茶室である可能性が高いと考えられます。そして移築され現在妙喜庵にある待庵は、山崎の利休屋敷にあったか、あるいは現時点では謎のまま、としておいた方が良いと思われます。
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