建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

高谷宗範『茶室と庭園』をめぐって

建築学会大会において「高谷宗範『茶室と庭園』をめぐって」と題して発表して参りました。
これまでも高谷宗範と松殿山荘に関して、連続して発表してきましたが、今回は昭和2年に刊行された『茶道の主義綱領 茶室と庭園』(恩賜京都博物館での講演録)に関して取り上げました。
内容は、いずれ公開されるCiNii Articles 検索 -  桐浴邦夫などでお読みいただければと思いますが、概要を記しておきたいと思います。
高谷宗範はいわゆるジェントルマンアーキテクトであって、職業としてではありませんが、建築に関する知識や時代の動向の把握はかなり高いレベルであったといえます。最初は茶の湯の趣味から発展したものだと考えられます。やがて数寄者仲間の邸宅の設計も手がけるようになり、幾つかの図面も遺っています。その一つに芝川又右衛門邸があります。明治44年に武田五一が洋館を設計するのですが、その和館や芝川家の茶室の移築などに関わっていました。また藤井厚二が竹中工務店時代に屋敷を設計した村山龍平とは茶の湯の仲間でした。
宗範の『茶室と庭園』をみていくと、建築に関して、住居史的視点、環境工学的視点、そして様式の問題を意識していたことがわかります。とりわけ様式の問題は当時の建築界にとって大きな課題であったものです。大正頃の建築を「目下試験中の過渡期」などと記していました。そういったことはおそらく武田や藤井らから、直接あるいは間接的に知り得たものであろうと考えられます。
梗概集には載せていませんが、9/4発表時に使用した図をご覧下さい。

大正4年 京都商工会議所計画案 武田五一(作品集より)

大正15年 松殿山荘中玄関 高谷宗範
宗範は自らの考えに基づいて建築設計を行っていたのですが、おそらく武田や藤井らからの影響も少なからずあったものと考えられます。
その意味で松殿山荘は、宗範の個人の趣味というより、むしろ数寄屋建築の近代化という大きな問題に立ち向かった宗範の、壮大な実験住宅ではなかったのでしょうか。

聴竹居(大山崎) と 松殿山荘(木幡)
大正末から昭和初期、巨椋池を挟んで西と東に、それぞれ藤井と宗範が実験住宅を構えました。