建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

「近代における数寄屋の拡がり」「近代数寄屋の立役者たち」

「近代における数寄屋の拡がり」「近代数寄屋の立役者たち」を執筆しました。

『なごみ』2011年6月号

  • 「近代における数寄屋の拡がり」

数寄屋とは江戸時代のころ、茶室そのもののことを示す言葉であった。数寄屋という言葉が茶室以外の建築をも指すようになったのは近代になってのことである。もちろんそのとき、江戸期の建物に対してもさかのぼって数寄屋と呼ぶようになった。それは一般に茶室デザインの影響を受けた建築を示している。しかしのちに、幅広く数寄屋の言葉が使用されるようになる。草体化という言葉があるが、それに似たニュアンスである。数寄屋とはひとつのスタイルというのではなく、建築における草体化を示す言葉といってもよいだろう。
さて、近代における数寄屋は、他の建築や文化との関わり、それは国内のみならず、海外との関わりにおいて展開した。ここでは簡単に歴史をたどりながら、立体的に数寄屋を考えてみよう。・・・

  • 「近代数寄屋の立役者たち」

明治維新を経た近代、西欧文化が激しく流入する中、数寄屋はその意匠を変えながら、さらなる活路を見いだしていく。
数寄者、数寄屋大工、建築家。数寄屋を支えた人々は、茶の湯を支え、次の時代へと伝統文化の継承をめざした。
近代数寄空間を創出した功労者とその数寄屋を紹介しよう。
伊集院兼常―廣誠院、益田鈍翁―白雲洞、仰木魯堂―松の茶屋、高橋箒庵―護国寺円成庵、木村清兵衛―桐蔭席、吉田五十八―北村邸四君子苑、堀口捨己―八勝館、村野藤吾―都ホテル佳水園