Casa BRUTUS特別編集 ニッポンが誇る「モダニズム建築」にsupervisorとして協力いたしました。(2009年4月号が他の特集を加えて再版されました)
http://magazineworld.jp/books/paper/5028/
k-soho.hatenablog.com
Casa BRUTUS特別編集 ニッポンが誇る「モダニズム建築」にsupervisorとして協力いたしました。(2009年4月号が他の特集を加えて再版されました)
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昨日は茶書研究会主催の「山上宗二記」シンポジウムでした。
私は「『山上宗二記』にみる茶室」ということでお話しして参りました。
概要は、以前の『茶道文化研究』に掲載したものをベースにしていますが、一部新しい史料も使用し、より考察を深めたものです。概要は以下の通りです。
今回は時間の都合もあり、以下のa紹鷗四畳半、b関白様御座敷、に絞りました。
今日庵本の図をリライトしたものです。元の図は、縮尺1/60(1間を1尺)で、丸太と角柱を区別し、畳の大きさを6尺3寸×3尺1寸5分で描くなど大変正確な図です。
aでは、出入口を低く設定し、床框に木理の見える「掻き合わせ塗り」を採用し、また角柱主体の室内構成の中に一部丸太が見えてきています。そのようなことから真の格式あるものから少し侘びたものとして位置付けることが出来ます。その意味では否定的に捉えられる『南方録』の内容ともある程度の一致を見ることができます。
一方坪の内が変化して露地になったとするならば、路次(露地)から坪の内というこれまで示されてきたアプローチには少し違和感を感じるため、町家主屋室内から一度庭に出て、坪の内に入るいうアプローチを考えてみました。これにはいくつかの意見が出されましたが、良い視点を提供していただいたと思います。さらに検討し、まとめていきたいと思います。
bは、近年、山崎城に利休が造った二畳敷で、それは待庵の元の姿である、との視点が主流となっていましたが、これに異を唱えました。すなわち、完全に否定できることではありませんが、その可能性は限りなくゼロに近い、ということです。
具体的には次の通りです。床の間の大平壁(奥の壁)の両脇には柱が見えています。すなわち室床ではありません。また坪の内に面しては貴人口形式の可能性が高いと考えられます。躙口の可能性は低いと思われます。これは他の宗二記の図から推し量ることができます。以上より、b図は待庵の元の姿とはいえないと言うことです。さらに、これまでは利休の手紙より、利休が山崎城に茶室を造っていたと言われてきましたが、二畳であるとはどこにも記されていませんでした。秀吉が山崎城の築城を行っていたとき、利休が山崎において忙しくしていた、という程度の内容からの推測でした。しかし、利休の手紙をさらに吟味しますと、山崎城において広間の茶室(畳、十二畳および炉畳を入手した手紙があります)を造っていた可能性が出て参りました。
以上より、b図は関白様御座敷であることから、堀口捨己らが主張していた大坂城の茶室である可能性が高いと考えられます。そして移築され現在妙喜庵にある待庵は、山崎の利休屋敷にあったか、あるいは現時点では謎のまま、としておいた方が良いと思われます。
論文・レジュメ_リンク
茶書研究会のページに7/18(土)の「山上宗二記」シンポジウムについて掲載されています。www.miyaobi.com
茶書研究会「山上宗二記」シンポジウム
■「山上宗二記」シンポジウムのお知らせ
● 山上宗二(1544~1590)は、堺生まれの「薩摩屋」という屋号をもつ商人で、号は瓢庵。信長の時代は堺の自治組織である会合衆(えごうしゅう)のひとりで、信長の茶堂である今井宗久、津田(天王寺屋)宗及、千宗易(利休)につぐ茶人として、大名達の茶会にも招かれる人物であった。本能寺の変後、宗二は諸国を流浪する波乱の後半生を送り、天正18年(1590)、秀吉により惨殺された。享年47歳。
●『山上宗二記』は、そんな中、天正16年(1588)に約半年をかけて書き上げた茶の湯秘伝書である。そこには千利休在世時の茶の湯の様相を知りうる貴重な証言が含まれる。
● 本シンポジウムでは、今日庵本や不審菴本、高野山成就院宛本などの検討を中心に、『山上宗二記』の語るもの、そこにみえる茶室、茶人としての宗二について問い直す。
15:00~15:10 会長挨拶 筒井紘一
15:10~15:30 講演1「『山上宗二記』について」 谷端昭夫
15:30~15:50 質問と討論 八尾嘉男
15:50~16:10 講演2「『山上宗二記』にみる茶室」 桐浴邦夫
16:10~16:30 質問と討論 神津朝夫
16:30~16:50 講演3「新発見の成就院宛本について」 影山純夫
17:00~17:50 全体討論 司会: 筒井紘一
日 時:2015年7月18日(土) 15:00 ~ 17:50(14:40 開場)
会 場:キャンパスプラザ京都第3講義室
〒600-8216 京都市下京区西洞院通塩小路下ル (ビックカメラ前) 075-353-9111
参加費:1,000円(予約不要) 茶書研究会の会員は700円
お問い合わせは茶書研究会事務局まで
メールchasho@miyaobi.com、お問い合わせフォーム、TEL075-441-7722
「武野紹鷗とそれ以前の茶の湯空間」
紹鷗の茶室にいたる二つの筋道、すなわち茶室の原型として「会所」そして町衆の「アン」について述べ、それが統合した形として紹鷗の四畳半を位置付け、お話ししました。「山上宗二記」の一間床の四畳半と「和泉草」の床無しの四畳半について解説いたしました。
kodo-kan.com
1/31神戸で開催された近畿建築祭、「歴史的建造物調査 平時のネットワーク構築を考える」と題して行われたセッションのうち、京都府代表(KOMO(古材文化の会・伝統建築保存活用マネージャーの会)の代表)のパネリストとして参加しました。
各府県のヘリテージマネージャーが災害に対して、平時のネットワークをどう築いていくかという視点ではじめられましたが、災害と言うことを大上段に構えるのではなく、日常的なネットワーク構築がまず大切である、というまとめとなりました。
近畿各府県のヘリテージマネージャーは建築士を核にしつつも、それ以外の方々も参加しているなど、それぞれユニークな構成そして活動が行われています。今日はお互いの状況を知ることができ、ネットワーク構築としてまず第一歩を踏み出せたのではないかと思います。
茶の湯文化学会近畿例会で発表しました。
内容は、先の「山上宗二記にみる茶室」を元にした発表です。
これまでと少し違った視点で、紹鷗や利休の茶室をみたものです。
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