国の文化審議会は、松殿山荘を重要文化財に指定するよう、林芳正文部科学相に答申した、とのことです。
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宇治の「松殿山荘」国重文指定へ 京都の建造物299件に : 京都新聞
茶会記にみる押入をめぐって
建築学会大会で、「茶会記にみる押入をめぐって」と題して発表いたしました。
内容を要約すると以下の通りです。
茶会記には「押入」「押入床」という言葉がときどきでてきますが、これは何を示すのでしょうか。これまでは、押入状の床の間、現在の床の間に似たもの、などと解釈されていました。でも押入状の床の間、とはどういうものでしょうか?また現在の床の間に「似た」ものとはどういうものでしょうか?
押入状の床の間とは一説によると、松花堂の床脇の戸棚のようなものともいわれてきました。しかしそれでは説明のつかないものも多々みられます。
それで16世紀の茶会記を検討いたしました。
もちろん現在の床の間と同様の意味として使用されているケースがあります。つまり床の間と解釈することは問題ないでしょう。
しかしそれ以外のものについて、押入状の床の間と理解するには少々無理があるものもみられます。
そこで、当時の様子を理解する手がかりとして日葡辞書をみてみました。
そこには「ヲシイレ」が「家の外側へ突き出たところの内側にある空所」とでていました。茶室において「家の外側へ突き出たところの内側にある空所」とはどういう部分でしょうか?
一つは床の間です。
そしてもう一つ考えられる部分は、台目構えの(大目構え)の点前座です。
茶会記に記されている「押入」の一部に台目構えの点前座と考えると、すんなりと理解できるものがみられます。
ということで、「押入」の意味としては、「床の間」と「点前座」を示していたものと考えられるのではないか、という説を発表しました。
上記について、ご批判があれば頂戴したいと存じます。
以下、補足です。
この時代、茶室の形態として現在のものの原型が生まれた時期です。
そのひとつに台目構えもあります。
また、床の間そのものも、現代のように形づくられたと考えられる時期です。床の間は上段と押板が凝縮された形式だとの説があります。
そのようなことから、言葉に混乱があったものとみられます。
『モダンエイジの建築』
日本建築協会100周年を記念した図書『モダンエイジの建築』届きました。滋賀県庁舎、関電京都ビル、京都市美術館、甲子園ホテル、橿原神宮駅、大阪ロイヤルホテル、そして1935年の「茶室建築特集号」を担当いたしました。
茶室特集号では、当時の建築家たちの認識として、茶室が過去の建築ではなく、まさにその時代を生きているものとしての認識であったことが、良くわかる内容となっていました。数寄屋建築家の木津宗詮や、当時の新進の建築家、吉田五十八の論考などが掲載されていました。また興味深いのが、当時の写真の撮り方です。現在とは違って、あえて戸を開けて撮った写真が多いのです。おそらく茶室の立体的な構成を見せたかったのだと思われます。
日本建築協会100周年
日本建築協会が100周年を迎え、記念行事が行われました。
www.aaj.or.jp
その一環として100周年記念誌が出版され、これまで『建築と社会』誌で連載されてきた「モダンエイジの建築 -「建築と社会」を再読する-」が掲載されました。
小著も数本掲載されています。
またあらためて、詳細は記したいと思います。
平成のちゃかぽん 有斐斎弘道館 茶の湯歳時記
淡交社から『平成のちゃかぽん 有斐斎弘道館 茶の湯歳時記』が、出版されました。
伝統的な日本文化を現代に生かす活動を行っている「有斐斎弘道館」の茶会についての図書です。
弘道館の茶室と庭園の解説を担当いたしました。
弘道館の建築は一見さり気ないものですが、細部に着目すると、その材料や意匠にじつに興味深い工夫がなされています。時代背景や空間構成の変化なども興味深い点です。
数寄屋とはこういうもの、というお手本のような要素が内包されています。
本書を読まれ、あるいはじっさいに見学(要予約)されることをお薦めします。
意匠学会「デザイン理論」69号
昨年7月に意匠学会で発表した「数寄者高谷宗範の建築意匠について」が「デザイン理論」69号に掲載されています。
これまで発表してきた、ジェントルマンアーキテクト高谷宗範の建築について、これまでの研究に新たな知見を加え発表した内容についての梗概です。
擁翠亭
この度、擁翠亭保存会の代表に就任いたしました。
微力ではありますが、擁翠亭の維持・管理、調査・研究に尽力して参りたいと存じます。
どうぞよろしくお願い申し上げます。
擁翠亭保存会|太閤山荘
【趣旨及び目的】(擁翠亭保存会HPより)
「擁翠亭」は、江戸時代前期、加賀藩士で京の彫金師であった後藤勘兵衛(覚乗)の屋敷に建てられた、日本一窓の多い草庵茶室である。設計者は3代将軍徳川家光の茶の湯指南役であった小堀遠州(正一・政一)、遠州にそれを依頼したのは加賀藩主前田利常であった。この茶室には前田利常自身の好みが反映されていると考えられ、他所の茶室には見られない独自の意匠が随所に見られる。
室内には茶室の閉鎖性と茶屋のような開放感が同時に存在し、時に応じて陰から陽へと劇的に様相を変える。遠州の開放的な美意識「綺麗寂び」を体現する茶室といえよう。そのような歴史的茶室の保存・維持管理および、調査研究を進めることは、歴史的・文化的にとても重要なことである。
このたび、その「擁翠亭」を亭主宮下玄覇の私邸太閤山荘(京都市北区大宮釈迦谷10-37)に再組み立てしたことを契機に、擁翠亭保存会を立ち上げ、その貴重な茶室の維持・管理、調査・研究を主な目的とした活動を行う。日本文化の中心地たる京都において、それらの活動が、茶道文化の発展・啓蒙にも寄与することと考え、保存会が得た研究成果や情報については、希望者の請求に応じて随時提供してゆきたい。