建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

分離派展の感想

京都国立近代美術館で開催されていた分離派建築会100年展が終了しました。
その分離派展の感想をfacebookに投稿したところ、意外にも反応があって、主催者側の京都大学教授の田路氏のところにまで、この声が届いたようです。以下に少し整理して(参考文献等を付け加え)掲載しておきたいとおもいます。

おくればせながら(2/16、火)、京都国立近代美術館で開催されている分離派展を見てきました。
この展示では、日本の近代建築の発祥から分離派までと、分離派以降のモダニズムについても展示していました。すなわち、明治の様式建築からモダニズムに至る道程を、過去建築からの分離を唱える分離派を中心に展示されていて、近代建築史がわかりやすく、そして見応えのある展覧会でした。

・・・ただし、次の点で物足りなさを感じました。

すなわち、 分離派宣言の第2条目「過去建築圏内に眠つて居る総てのものを目覚さんために溺れつつある総てのものを救はんがために。」の内容がほぼ抜け落ちているのです。近代建築の研究あるいはそれを論評する人の圧倒的多く(もちろんそうでない人もいますが)にとっては、「過去建築からの分離」した近代の「新しさ」が大きな命題であったことを思うと、やむを得ないといえばそうなんです。

私は、この2条目に大変興味を持っています。じつは30数年前に京都工芸繊維大学修士論文で、武田五一(分離派以前の建築家ですが)が、その茶室研究において、千利休に近代性を見ていたことを述べ、それをブラッシュアップし、20年ほど前、黄表紙建築学会論文集)に掲載しました。
武田五一『茶室建築』をめぐって─その意味と作風への影響─」(建築学会論文集、2000.11)
その内容は、小著『近代の茶室と数寄屋』淡交社、2004)や、その後何度か公刊されたものに掲載しています。
また、分離派の中心人物の堀口捨己表現主義的建築「紫烟荘」に茶室建築の影響がみられることを、2000年の建築士会『HIROBA』での連載「歴史へのまなざし」において述べており、上記の『近代の茶室と数寄屋』にも再掲しています。
それらのものを含め、さらには茶の湯空間のもつ近代性について論じたものとして、『茶の湯空間の近代』思文閣出版、2018、茶道文化学術奨励賞受賞)があります。昨年では共著として上梓された『和室学』平凡社、2020、近日中に再版とのことです)にも少し記しています。
堀口の考えていた、すくい上げるべき過去の建築は、茶室なのです。さらに拡げて考えると、その考え方は武田五一あたりからもでてきています。かれらにとって、茶室は過去ではあるが、現代、未来の建築でもあったのです。

歴史は多面的です。分離派についても、1条目の「過去からの分離」と2条目の「過去をすくい上げる」、一見矛盾することを併せて見たとき、日本の近代建築の厚み、そして面白さが見えてくるのではないでしょうか。

しかしながら、私のこれらの論文は、専門の方々にはほとんど読まれていないようです。建築論の方はもとより、近代建築史の方も読んでいないようです。私のような在野のものが書いたものは往々にしてそのような傾向があります。ということで、ここに参考文献を記しておきたいとおもいます。ご興味があればご一読ください。そして何かの参考にしていただければ、あるいはご批判など頂戴できれば幸甚です。もっとも私自身も、書いた直後から、もう少しこうすればよかった、ああ書けばよかった、などとおもうことも多く、次回はもっとブラッシュアップしたものをと考えています。

参考文献:

分離派宣言
我々は起つ。
過去建築圏より分離し、総ての建築をして真に意義あらしめる新建築圏を創造せんがために。
我々は起つ。
過去建築圏内に眠つて居る総てのものを目覚さんために溺れつつある総てのものを救はんがために。
我々は起つ。
我々の此理想の実現のためには我々の総てのものを悦びの中に献げ、倒るるまで、死にまでを期して。
我々一同、右を世界に向つて宣言する

元の本文に戻る