建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

大久保利通の茶室と伝える建築について

先般より、新聞誌上などで大久保利通の茶室について目にすることも多いですが、簡単にコメントしておきたいと思います。
なお、下記は、新聞紙上で拝見した内容、そして原田氏のブログと、ご本人から見せていただいた一部資料を元に記述しています。
今後、さらなる情報がありましたら、書き加えるか、書き改めたいと思います。
現在私が知り得た情報のみから、ということを記しておきたいと思います。

  • まず、茶室というものは、歴史を伝える建築という側面を持つ、ということが一つの特徴です。

もっともそれが必ずしも正しいかどうかは、キチッと検証しなければならない、という側面があります。
例えば、名古屋城にあった猿面茶室という建築は、信長と秀吉の逸話が付随して語られるようになり、近代(明治~昭和前期)に大いに注目された茶室です。
しかし学術的には、その後の建物であることが判明しており、上記の逸話が間違いであったことは、当時も明らかでした。
しかししかし、ですが、なぜそのような形態(猿の面(秀吉の顔)のような床柱)を採用したのか、ということは解明されていません。場合によっては、秀吉を偲んでつくられたものかも知れません。あるいは別の側面として、明治以後、この茶室が大きく注目され、写しが造られるようになりました。つまり茶の湯発展にある程度影響力を持ったことも事実としてあります。
このように考えると、学術的な側面だけで切りすててしまうのは、いかがなものかと思います。しかし逆に伝承が優先されすぎて、学術的な側面がもみ消されてしまうことがあれば問題だと思います。決して感情によって学術的な側面を無視してはいけないし、また現在わかっているだけの学術的側面を振りかざして、誤りのあるものをすべて切りすててしまうという態度にも問題があると思います。

発見等の経緯は、詳しくは、原田氏のブログを読まれるといいかと思います。
sego.sakuraweb.com
私自身、茶室の研究者として、これまで知り得た範囲で申し上げたいと思います。
まず小松帯刀の「御花畑」の茶室が大久保邸に移築されたということですが、これが正しいとすると、現在の茶室(先日解体され保存されている茶室)は、大きくその平面が違います。
移築時に大幅な改変が行われた可能性があるということですが、あまりにも平面が違いすぎるので、これは移築とは言い難く、材料を譲り受けた、という程度の表現が正しいかと思います。
ただ移築という表現が使われているので、ほぼ同様の形式で移築されたとするのが妥当だと思います。ならば、その後何らかの理由で改築、あるいはその一部材料を使って新たな茶室を建てた、ということが考えられます。
明治時代になってからの茶の湯は、しばらくは不遇の時代、とも呼ばれています。それが復興するのは小著では、東京で星岡茶寮などが造られる明治十年代以降に少しずつ、一般には明治三十年代頃からと考えられます。
すなわち何らかの茶室があったとしても、その茶室は使われずに10~40年程度、放っておかれた可能性があります。10年も使わずに放置されていた建築はそのままでは使えない可能性があります。あるいは40年放置されていたなら、倒壊の危機が迫っていた、あるいは倒壊していた可能性があります。
大正期に現在の建物と同様のものがあって、茶会が行われたということですので、大正期頃に現在の建物を創った、と考えられます。その際、大久保ゆかりの茶室であるとのことが、後の講演集に掲載されています。すなわち大正期頃に古材を利用して建てられたのが、現在の建物である、と考えることが、現時点ではもっとも合理的な考え方ではないかと思います。ただ現在のところ墨書や和釘の使用など、確実に幕末あるいは明治初期に溯る証拠は見いだせないようです。あと若干の情報では、大正期の材料の一部は、現在に至るまで失われているものもあるようです。

  • 茶室の研究者について

この茶室は、京都市によって保存されることが決定したようです。大正昭和前期頃の伝承が受け継がれた、という形でしょうか。しかし茶室研究という立場、学術的にはかなり問題が多い判断といえるでしょう。篤志家が保存するならば問題ないと思われますが、現代において公が行うには、大きな問題を孕んでいると思います。おそらく京都市がその判断に至るまでに、しかるべき学者などに意見を求めたと思われますが、残念ながら私のところに意見を求めるようなことはありませんでした(雑談はしましたが)。「御花畑」の図を茶室の図面としてキチッと見て、その後の茶の湯の歴史がわかっていれば、現状の茶室を大久保利通の茶室と判断するのはきわめて困難であることは、自明のことだと思います(もちろん一部の材料が転用されている可能性は否定できません)。
何をもって茶室の研究者というかは、ここでは置いておいて、私自身、その端くれだと、自認しています。しかし現在、建築史の研究者は、それなりに数が多いのですが、こと茶室となるときわめて少ないのが現状です。『茶の湯空間の近代』でも述べているように、近代和風建築の調査においても、地域によっては茶室がほぼ取り上げられていないところもあります。建築の中ではちょっと特殊な茶室とそれをとりまく住居史、そして茶の湯の歴史について理解しなければならないので、面倒な分野です。しかし、この分野の研究者を増やしていかないと、茶室が伝承のみに流され、正しく学術的な側面からの判断ができなくなる恐れがあります。一方でまだ知られざる多くの茶室があると思われますが、それらが発見されたとき、大切な茶室の価値を伝える人がいなくなり、結果として、多くの茶室が消えていく運命にあると思います。大袈裟でしょうか?
(6/18 7/2 若干修正)