建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

近代数寄者と銘木文化

拙稿「近代数寄者と銘木文化」が淡交社の雑誌『なごみ』6月号に掲載されました。
当号は「茶室に生きる銘木」特集号で、中村義明氏による実例紹介などが掲載されています。
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小稿では京都の伊集院兼常の廣誠院、岡部正太郎が手を加えた弘道館、そして石川県の新家正次の無限庵を紹介いたしました。

鴨東通信no.106

思文閣出版の『鴨東通信』no.106にエッセイ「茶の湯空間からの近代」が掲載されました。

内容は、先般の学術書茶の湯空間の近代』に関連したものですが、「茶の湯空間「の」」を「茶の湯空間「から」」としています。近代建築と茶の湯あるいは数寄空間とは密接な繋がりがあります。そのことについてエッセイとして書いたものです。機会があればご覧下さい。
なお、同誌には「近代数寄空間を煎茶文化でよみとけば」と題しての鼎談(尼崎氏、麓氏、矢ヶ崎氏)も掲載されており、茶の湯文化、数寄空間への注目度が高まることが期待されます。

思文閣文化サロン

朝日カルチャーセンター京都教室、思文閣文化サロンで、「『茶の湯空間の近代 世界を見据えた和風建築』 数寄屋建築から見えてくる近代」と題してお話しして参りました。
この度は、2月に思文閣出版から上梓した『茶の湯空間の近代 世界を見据えた和風建築』に因んでの講演となりました。
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場所は松殿山荘です。
講座内容:(朝日カルチャーセンターwebページより)

近代の茶の湯空間、それはもちろん日本の伝統なのですが、また一 方、世界的な視野からも位置付けられるものです。西洋建築が近代化するとき、大きく着目されたものの一つが日本建築でした。とりわけ茶室や茶の湯の影響を受けた数寄屋建築は、その簡素な意匠を元にした建築に、豊かな空間が構成され、西洋や日本の近代の建築家たちを魅了しました。一方で明治維新を迎えた日本においては、人びとの視点は西洋に向き、伝統文化は大きな打撃を受けたのです。この激動の近代における茶の湯空間について、さまざまな側面を考察します。

茶室の本質

淡交4月号特集「茶の湯における茶室」で「茶室の本質」と題して小稿を記しています。
茶室の本質として、自然との関わりについて焦点を当てたものです。
茶室とは壁で囲われた閉鎖的なもの、という反論が聞こえてきそうですが、しかし自然との結びつきの強い建築なのです。
なぜ?どこが?と思われるかも知れません。内容は、本書をお読み下さい。
また機会があれば概要を記していきたいと思います。
https://www.tankosha.co.jp/ec/sysimg/image/img/03201310_5ab089aa4b80e.jpg

淡交平成30年4月号

七事式●貴人清次花月之式・炉(三) 点前●紹鷗棚 薄茶点前(一)

裏千家茶道の機関誌、また茶の湯を中心とする日本文化を総合的に紹介する月刊茶道誌。宗家の最新情報や全国の淡交会会員の活躍を豊富な写真とともに紹介、さらにオールカラーの点前のページや連載読物、毎号テーマを変えての《特集》など、多彩な情報を満載してお届けします。

今月の扉 四季の金団 めぐる、春(髙家 啓太)

◎巻頭言
花鳥風月を見つめる(千 宗室)

◎点前のページ
七事式の解説 貴人清次花月之式・炉(三)(千 宗室/監修)
点前の解説 紹鷗棚 薄茶点前(一)

◎特集
茶の湯における茶室
茶室の本質(桐浴 邦夫)
茶室のイロハ(田野倉 徹也×はな)

◎好評連載
わたしの「名物」―私的名物記 文豪の「秘色」(三笠 景子)
ロバート キャンベルの名品に会いに行く 古伊賀水指 銘破袋(ロバート キャンベル)
日本のうるし 甲州印伝
茶人の嗜み 能を学ぶ 桜川(金剛 龍謹)
皇室と茶の湯 慈胤法親王後西天皇(依田 徹)
触れることば~心に触れることばの秘密 おぼろ月夜(黒川 伊保子)
茶道心講 後見の美術商(岡本 浩一)
淡交歌壇(佐佐木 朋子・選)
淡交俳壇(橋本 榮治・選)
インタビュー 我が師を語る(神谷 宗雅)
今月の表紙より(鈴木 宗博)
組織における茶道の広がり 松江市役所

行事報告
九州裏千家生茶道研究会25周年記念大会

東西南北
[京都青年会議所初釜式・国際ソロプチミスト初茶会/大和学園「誠心軒」茶室披き/第31期L・T出向員研修開講式]

総本部だより
月釜ご案内
淡交通信(ホッとお便り/情報アラカルト)
クロスワードパズル
美術館案内
いちょうプラザ(青年部)
裏千家学園 お茶づけの日々

茶会記(淡交会記/一般会記)

弘道館講座『茶の湯の文化を識る』

弘道館講座『茶の湯の文化を識る』で、「茶の湯空間の近代」と題して、お話しして参りました。
2月に出版した同書の内容を、なるべくわかりやすくお話しいたしました。
茶の湯にとって苦難な時代を乗り越え、大きく発展した近代の茶の湯。その茶室や数寄屋についての講座です。
近代の建築家たちがどのような視点で茶の湯空間、つまり茶室や数寄屋を見ていたのか、当時の言説と合わせて、具体的な事例で説明いたしました。
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『茶の湯空間の近代』の読み方 その7

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その7

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘(現在のページ)

■ 第七章 高谷宗範と松殿山荘

いよいよ最終章。本章では、昨年(平成29年)重要文化財に指定された松殿山荘について、作者高谷宗範の建築の「仕事」とともに記している。
高谷宗範は官僚であり、のちに弁護士となった人物で、建築を生業としていた人ではない。いわゆる数寄者である。この時期の数寄者には建築について非常に詳しい人がいたが、宗範もその一人であった。最初大阪今橋に居を構えたが、その屋敷の茶室に手を加え、今でいうところのリノベーションを行い、新たな茶室として甦らせた。
その後知人の茶室や居宅の設計を行った。それはのちの松殿山荘につながるものであった。松殿山荘はじつにユニークな建築である。いちおう、近代和風、近代数寄屋という分類になるだろうが、他のものと大きく違っている。なぜこのようなものができたのか。単に新奇なものを造ろうとしただけではない。作者の高谷宗範の深い考慮の中から生まれたのが、この建築である。その概要の一部を記しておこう。

現在明治村に移築されている芝川邸は明治44年に建設されたものである。じつはこの洋館には、かつて和館が併存していて、その設計に高谷宗範が加わっていたというのだ。さらに言うと、芝川邸と松殿山荘、近似の意匠がみられる。この芝川邸における武田との出会いが高谷宗範の考え方を大きく変えたものとみられる。もちろん宗範はプロではなくジェントルマン・アーキテクトであり、ぎこちなさは残る。しかし宗範自身、建築界の当時の情報を見聞し、真摯にそれを取り込んだのがこの建築である。建築史家鈴木博之は「われわれの二十世紀は、建築の表現の論理においては、松殿山荘を越えるラディカリズムを戦後に至るまでもっていない」と評している。(あとは本書をお読みください)

『茶の湯空間の近代』の読み方 その6

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その6

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ(現在のページ)
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘

■ 第六章 近代の安土桃山イメージ

明治初期の茶の湯にとって不遇な時代から、茶の湯が復興するきっかけの一つとなった出来事、愛知県博覧会の猿面茶室について、本章の最初に取り上げている。
これまでにも何度か取り上げた内容であるが、ある意味それは「うそ」の内容が含まれる。つまりこの床柱の猿の面のような斫り目から、信長と秀吉の戯れ言が世間に広まるが、それは根拠の無いことである。
茶の湯の復興には、そのような側面もあった。茶の湯関係者にとってみれば、なんだかすわりが悪い話かも知れない。私自身も書くべきかどうか悩んだ部分だ。この部分は自分でも嫌になるときがある。ただ復興の為のさまざまな側面を記しておくことは重要なのではないかと思い、記したわけである。
また本章では上記の秀吉イメージだけではなく、利休イメージも扱った。その概要の一部を記しておこう。

近代の茶の湯、そして茶の湯空間に重要な要素は利休イメージであった。これは江戸期末頃の茶の湯の遊芸的なイメージを払拭するため、精神性を正面に持ってきたものと考えることができる。第二章で記した紅葉館や星岡茶寮には利休堂が設けられた。のちの料理店なら不要な施設である。また第三章の今泉や武田の論文においては、千利休への注目は非常に高いものである。千利休の造った茶の湯空間、これに近代性を見ることは武田からはじまり、大正や昭和期の建築家たちに受け継がれた。(あとは本書をお読みください)

『茶の湯空間の近代』の読み方 その5

桐浴邦夫著『茶の湯空間の近代』の読み方 その5

本書は、学術書です。ただ同分野を研究あるいは知識をお持ちの方は、少ないようです。しかし筆者は、これが近代建築史において重要であると考え、出版いたしました。本ブログでは、数回に分けて、「『茶の湯空間の近代』の読み方」を記していきたいと思います。

その0 思文閣出版Webページより
その1 第一章 茶の湯空間の近代、その概要
その2 第二章 公の場所に設置された数寄屋
その3 第三章 明治期の茶室の文献
その4 第四章 大正期の茶室の文献
その5 第五章 昭和前期の茶室の文献(現在のページ)
その6 第六章 近代の安土桃山イメージ
その7 第七章 高谷宗範と松殿山荘

■ 第五章 昭和前期の茶室の文献

昭和になると、茶の湯空間への注目度が増す。本章は建築の雑誌の茶室や数寄屋の特集号を中心に論じる部分である。昭和を代表する建築家、堀口捨己吉田五十八なども積極的に意見を述べている。またこの時期、ブルーノ・タウトが来日し、桂離宮を絶賛したことでも知られる。
ちなみに、ここ20~30年ほど前から、タウトの言葉は日本の建築家によって「つくられた」ものとの説が出回るようなった。井上章一氏の論文『つくられた桂離宮神話』で、何度か再版されている。井上氏は批判されたというが、具体的な内容は聞こえてこない。批判するなら、具体的に示す必要があろう。
さて、タウトの言説はつくられたものだろうか。彼の言説を丹念に調べていくと、ドイツ在住時から日本に興味を持っていたが、ドイツでは日本のことがあまり伝わってこないと残念に思っていたそうだ。一方イギリスにはある程度伝わっていて、ウィリアム・モリスらに憧れていたと記されている。また来日前には数寄屋建築にも興味を持っていたと述べる。本章では井上氏の上記論文についても時々参照している。参考にすべきところは多いが、しかし全体の流れは意図的に選んだ文献を使用している。当然見ているはずの文献を無視しているのだ。もっとも本書は趣旨の違う他の論文を糾弾することを目的としたものではないので、脚注に記すにとどめている。丁寧に読んでいただけると、その部分も見えてくると思う。
ついでではあるが、また本書とは直接関係ないが、数年前「山上宗二記にみる茶室」を記した。ここでも、20~30年ほど前から信じられていた中村利則氏の「関白様御座敷二畳敷=待庵の祖形」説に疑問を呈した。中村利則氏の論文も参照にするところが多いが、意図的かどうかは不明だが、おそらく見ているであろう文献を落としている。結果、先の飛躍が大きすぎる説が生まれ、それを論拠に復元?という具体的な作業にまでおよんでいる。
これらはじつは本書の出版社(思文閣出版)とも関わりのあるものだ。このような私に、公正中立な立場で論文を書かせていただいて、感謝するしだいである。
論文には間違いがある(こともある)。本来は完璧であらねばならないが・・・人が書くものであるからやむを得ない部分もあると思う。しかし特に問題なのは、一つの説が呈示され、それが具体的に批判されることなく、繰り返し語られることである。本人に悪気はないかも知れない。しかし周りがそれをはやし立て、いつの間にかそれが常識となってしまう。本人も最初は少し引っかかっていたものが、いつのまにか忘れ去られ、ひとり歩きしてしまうのだ。誰かが批判する役割を負わねばならない。もちろん私の論文(世間にはさほど影響力は無いだろうが・・・)に誤りがあれば、気付いた方は是非お申し出頂きたいし、場合によっては論文で取り上げてご批判頂きたいと思うしだいである。
本書の内容に戻ろう。堀口捨己はいう。「今ここに現代建築の立場で、利休の茶室をとり上げる」と。先の武田の論文は利休に一つの到達点を見るが、その後の時代には興味を示していない。一方、堀口の立場は違う。利休以後の茶の湯空間についても評価が高い。
建築の各雑誌は昭和前期、茶室や数寄屋の特集号を組んでいる。本章ではそれを取り上げている。その概要の一部を記しておこう。

ある雑誌の数寄屋造特集号、本文を読んでいるとこれが数寄屋造?と思うような文章が多数寄せられているものがある。すなわち各建築家たちは、せっせと近代建築について記しているのだ。数寄屋造特集号に、である。そして最後の方に数寄屋造との接点を示す。またグラビアには堀口のモダニズム作品も掲載している。部分を見ただけでは、これが数寄屋造特集号だと誰も気付かない構成だ。またある雑誌の国際建築特集号にはせっせと数寄屋建築のことが記されている。これはブルーノ・タウトに因んだ特集号なので、およそ想像はできる。数寄屋をはじめ日本建築の近代性について多くのページをさいているのである。(あとは本書をお読みください)