建築 と 茶の湯 の間

桐浴邦夫(KIRISAKO Kunio)の備忘録 茶室・数寄屋・茶の湯・ヘリテージマネージャーのことなど

訃報 中村昌生先生

恩師、中村昌生先生が亡くなった。平成30年11月5日のことだ。
その業績は今さら言うまでもないが、茶室・数寄屋建築の研究者そして建築家としての泰斗であり、日本の伝統建築技術の顕彰に努められ、間近に迫った「伝統建築 工匠の技」のユネスコ文化遺産登録への道筋をつけたことでも知られている。
私は京都工芸繊維大学の学部学生の時からご指導いただいた。もちろん大学院は先生の研究室。と書けば、たいそう優秀だったように聞こえるが、全くそんなことはない。大学卒業までに5年かかっているし。修士そして研究生の時には何度か厳しく叱られ、しまいには破門のような状況にもなった。「君はもう来んでもいい」恒例の新年会に呼ばれなかったこともあった。
しかし、その後お許しをいただき、何とか関わりをもつことが許された。
就職も先生のお世話で決まった。静岡県の小さな専門学校に勤めた。そのとき中村昌生先生の弟子だから茶室のことは何でも分かるだろう、と思われていたようだが、じつは全く何も知らなかった。修士論文は近代建築、武田五一であったのだ。しかしその時、必死になって茶室の勉強をした。特に研究者になるつもりもなく田舎の学校の教員でいいと思って働いていたのだが、このときに意識が変わった。
それから少しずつ研究を始め、先生にも見ていただくようになった。そのかいあってか、すでに京工繊大を退官されていた中村先生より、東京大学鈴木博之先生をご紹介いただき、博士論文を書くことができた。
その後、先生とは時々連絡を取り合いながら研究を進めてきた。近代の茶室のことが大きなテーマであったが、それ以前、つまり桃山や江戸期のことも研究しなければならないとご指導を受けた。「近代のことなど、その前のことが分からずに理解できるものか」と。私の山上宗二の研究は、それがひとつのきっかけであった。
あるとき、先生の事務所をうかがったとき、先生はおもむろに棚から堀口捨己の本を取り出された。そこには多数の付箋とびっしりと小さな字でメモが記されていた。「堀口先生の本は辞書のように使っているんだ」と。私は大きな刺激を受けた。
本年3月に出版された『茶室露地大事典』は先生の遺作となった。その編集に加わらせていただいたことは、望外の喜びであった。
ご冥福をお祈りします。